芸術学概論(2)【講義録】

講義録

はじめに

芸術近代史とも言えると思います。毎回思うのですが、「授業の名前≠内容」なんで注意。概論ではないと思う。シラバスは要確認です。金曜1限でした。死を感じつつもちろん出席しましょう。
あと、(1)とか(2)とかⅠとかⅡとかもあんまり関係ない気がします。

同志社大学 シラバス検索/検索結果/芸術学概論(2)

なお、
「期末レポート試験 30%  授業中に挙げる課題図書に関するレポート提出。」
とありますが、そんなことはありませんでした。普通に自分で論題を探してレポートを書かなければいけません。

ベンヤミンの思想

アウラ――それは写真などの複製技術によって失われたと彼は言います。私もおおむね同意します。

かつて宗炳は、『画山水序』において、山水画に内在する超感性的なものの理論を述べました。カントは、『判断力批判』などにおいて、物自体の世界に存在する美の共通感覚を理想と打ち立てましたが、もはや我々はそれを感じることはできないのでしょうか……。

参考文献

https://amzn.asia/d/iGKSZmq

ヴァルター・ベンヤミン著・浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1』

確かこの本に『写真小史』と『複製技術時代の芸術』の両方が入っていた気がします。おすすめです。

レポート内容

ベンヤミンの考察が現代に与える影響について

 ヴァルター・ベンヤミン(1892~1940)は、著書『写真小史』や『複製技術時代における芸術作品』などにおいて、彼の時代に急発達した写真や映画などの技術に焦点を当て、絵画や彫刻を中心としたこれまでの芸術がどう変化していくのかということを考察し、評価した人物である。 

 特に『写真小史』では、当時画期的な技術向上があった写真について述べ、現代の写真にも大きな影響を与え続けている。また、『複製技術時代における芸術作品』は、「複製」をキーワードに、写真だけではなく、映画にもリソースを割いており、当時の思想・政治情勢と関連付けられている部分も多い。 

 このレポートでは、彼の著書の内容を踏まえつつ、彼の論が現在にも通じ、影響を与えているのかを考察する。 

 「芸術作品が技術的に複製可能となった時代に衰退してゆくもの、それは芸術作品のアウラである1」とあるように、ベンヤミンは複製がこれまでの芸術作品を大きく激震していると指摘した。しかし、これは彼が複製技術の到来を悲観的に考えているのではなく、今後の芸術の再出発点でもあると述べている点には注意が必要だ。 

 アウラとは〈いま―ここ〉的性質2、いわば作品の歴史的一回性であり、複製技術による作品は、これを議論できない。アウラを持つ作品は、その技術、所有者、経年劣化などに価値があり、オリジナルの真正さを形成する。複製技術は、アウラの複製まではできないのである。 

 ベンヤミンは、芸術の目的はかつて儀式と関連し、礼拝されることに価値があったが、展示することにも価値がおかれるようになった3、と指摘する。 

 複製技術、特に写真は、そのわかりやすい例であり、肖像写真が礼拝価値の最後の砦である。なぜなら、普段は合うことのない愛する人の顔が写った写真には、礼拝的な価値が生じるからである。これが「憂愁に満ちた、なにものにも比べがたい美しさ4」であり、それはアウラが写真と決別したことを意味する。 

 さらに、ベンヤミンは肖像写真から人間の姿が消えたような写真を撮る、フランスの写真家であるウジェーヌ・アジェ(1877~1927)の例を引き合いに出して主張する5。 

 彼のように、写真は人の影の無い風景を写すようになるが、ここでは展示価値が礼拝価値に対抗を始める。このような写真は、一定の意味で受け取られることを目的としており、感性に従って写真を受け止めるべきではない。その例が写真入り新聞であり、写真についての詳しい解説が記事にあるということである。つまり、写真の展示価値は、新聞記事のような説明文が不可欠であり、それは画家が絵画に題をつけることとは全く異なる役割を果たすものである。 

 さらにベンヤミンは、このような展示価値への方向付けは、シークエンスによって時間が進行する映画によって、さらに「精密かつ強制的6」になると主張する。 

◇ 

 なるほど今や写真や映画は、電波が届きさえすれば、いつでもどこでも見ることができるようになった。色や奥行きは幾万もの数字に置き換えられ、それは時間や媒体によって決して毀損されるものではなく、一度自らのメディアに落としてしまえば(ダウンロードしてしまえば)、所有者についても曖昧になる。 

 近年、NFT(非代替性トークン)によって、ある程度複製可能なものの真正さを証明すると主張する技術が登場した。この技術は、たしかにそう主張できそうでもあるが、それは間違いであり、ベンヤミンが主張したような、芸術はアウラ的歴史的一回性が真正さを証明し、複製可能品について、アウラは既に失われたもので、議論が不可能だという主張は正しいだろう。 

 まず、NFTは(絵画を描くような)技術や鑑賞者の時間を保証するものではないし、できない。やはりそのときアウラは失われている。芸術の真正さとは、ベンヤミンの言うような、歴史的一回性のみが保証し、複製すればするほどに一回性は失われてしまう。 

 仮にNFTが作品の真正さを証明しても、それはベンヤミンの言うアウラ的な正しさではなく、あくまで所有者が誰だとかの情報である。皮肉なことに、現在日本ではこのような知的財産はでなく、有体物ではないものに、所有する権利は認められていない7。 

 芸術(知的財産)の権利は19世紀以降、著作権によって守られるものである。これは、新しい技術の登場によって揺るがされるものではなく、議論は必要ない。 

 ベンヤミンの言うように、人の写らない写真が、展示価値強いということは理解できる。今日において、観光地の風景が写真に収められ、大量に複製されて展示されたり、販売されたりということはよくある。 

 このような風景写真は、見た人に「綺麗」とか、「そこに行ってみたい」などという感情を抱かせることはあるが、それ以上の意味を持たないだろう。 

 そもそもそのような写真は、複製されることを前提に作られているのではないだろうか。つまり、複製や引き伸ばしに堪えられるように、パンフォーカスになるよう絞りこみ、三脚に乗せてくっきりとした画面に仕上げるのが普通である。 

 ここからでもわかるように、一回性的なものに対する価値をそもそも念頭にしていないことがわかる。アウラを議論することは野暮であろう。 

 このように、ベンヤミンの理論は現代においても様々な考察ができる。彼の言う通り、アウラや価値などいったものは、複製技術によって、失われたものになってしまっている。また、新しく複製品の真正さを証明しようとも、それはとても難しい取り組みであるということも分かり、展示価値が現在において強くなっている理由も考察した。 

 ベンヤミンの考えは現代にも強く影響を与えるが、複製の技術がさらに発展していく未来には、どのような価値を創造できるのかは、彼が私たちに与えた課題であるとも言えるだろう。 


[1] ヴァルター・ベンヤミン著・浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1』(筑摩書房・1995年6月7日)、P509から引用
[2] ベンヤミン、P588
[3] ベンヤミン、P595~P599
[4] ベンヤミン、P599から引用
[5] 画像参照(省略) Eugène Atget Rue de la Montagne-Sainte-Geneviève 1898年 銀塩写真 22×18cm ニューヨーク近代美術館
[6] ベンヤミン、P600から引用
[7] 民法第85条(所有物の定義)、民法第206条(所有権の内容)

《引用文献》

ヴァルター・ベンヤミン著・浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1』(筑摩書房・1995年6月7日)

《参考文献》

ヴァルター・ベンヤミン著・浅井健二郎編訳・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1』(筑摩書房・1995年6月7日)

ヴァルター・ベンヤミン著・佐々木基一編集解説『複製技術時代の芸術 ヴァルター・ベンヤミン著作集2』(晶文社・1970年8月31日)

Art Scape 現代美術用語辞典ver2.0「アウラ」
https://artscape.jp/artword/5470
2024年5月21日最終閲覧

雑感

改めて自分のレポートを見直すと、ちょっと理論の飛躍が激しい気がしないでもないですが、概ね論理的にベンヤミンの意見を擁護しつつ、自らの意見を表明できるものになったのではないでしょうか……。

A率はそんなに高くないですね。私はAでしたが。

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