はじめに
本稿では「美学概論」の講義の期末試験の、筆者のレポートを公開します。
これを参考にしたり、コピペしたりすることはおすすめできません。
あくまで筆者の備忘録的記録です。
参考になりそうな文献
これ以外にもなんでも参考になると思います。
カント『道徳形而上学原論』
カントの著作は膨大ですが、『道徳形而上学原論』はページ数も少なく、大変読みやすいです。
この本には、カント哲学の基礎となる考えが網羅的に記述してあるので、大変おすすめできます。
最近、新訳が出版されるようです。
井奥陽子『近代美学入門』
タイトル通り近代美学の入門書。個々の哲学者に深く言及するわけではないですが、歴史や思想が編年体的に書かれたり、用語の解説なとがあったりして、非常にわかりやすいです。
ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』
カント期の美学を表現した金字塔。現代の小説に慣れ親しんだ我々には少々違和感がりますが、こういうもんだと思って読み進めると、当時の思想が手に取るように見えてきます。
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春学期
カントの美学について
構想力と悟性の調和や共通感覚などから、何を考察できるだろうか?
カントにおける美の概念を説明するにあたって、もはや共通感覚という考え方は必要不可欠である。
共通感覚とは、人間にア・プリオリに備わっており、構想力と悟性の調和に関与することができる。人間は、一定の表象が与えられたときに、構想力と悟性が遊び、快を感じる。それは、表象を介して概念に関わらず、純粋に主観的なものである。その結果として、共通感覚を持っていることが想定され、主観性の必然性・普遍性を私たち全員に担保するのである。
共通感覚は、すべての人間に共通であり、感情の普遍的な伝達可能性の前提である。であるからして、あらかじめ人間に備わっていることを想定せざるを得ない。なぜ共通なものを人間が持っていることを想定できるのかは、カントの他の主張からも十分理解ができるものである。
例えば、人間の自由因は物自体の世界にあるということや、最高善を求めたり、ア・プリオリにカテゴリを想定したりしていることから、共通感覚を持つことが人間全員に想定することは可能だろう。
また、構想力と悟性が調和して自然のかたちに快を見出し、共通感覚がそれを媒介できるのであれば、人間と自然には何らかの関係があることは想定されてしかるべきである。ここで、人間が自然の一部であると考えると、人間はかつてから自然の隠れた目的を知っているが、それが人間の物自体にあるために理解できないのではないだろうか。
そうであれば、人間と自然の目的は近いものがあって当然である。ここで、自然の産出するかたちが多様であり、私たちにとって目的なき合目的的であることを、以下のように考察する。
自然の産出は実は自由であり、その点で私たちと共通するものがある。であるから、同じ自由によって産出される自然のかたちは快であり、関心を欠くにもかかわらず適意が満たされるのである。また、私たちは自然の隠れた目的を物自体の部分では知っているが、現象として知り得ない(人間の自由因もまた、物自体である)ので、自然のかたちは「あたかも合目的的」という、限定された表現でのみ美的判断が可能なのである。
以上のように、カントの共通感覚や美は、決して反省的判断力だけの要素にとどまらず、カントの他の主張である超越論的な観点や、人間と自然との関係の考察をすることを可能とする。
シラーの美学について
シラーは美の研究を通して、何を見出し、目指したのだろうか?
シラーは、美を、現象における自由であるとした。特に自然美は芸術美に先立ち、自由を理念に含み、技巧が条件であるとした。カント的な自由とは違い、自らを自ら与えた規則に従わせるのに加えて、それ自身で存在していることを付け加えた。また、人間が美しいと感じるためには、絶えず変化し、感性的内容で埋めようとする状態を目指す感性衝動と、不変の形態を目指す感性衝動を媒介(中間状態である)する、遊戯衝動が働くべきであると主張した。
シラーは、劇作家であり、詩人でもあったという点には注目するべきである。彼にとって美とは哲学的研究対象だけではなく、実践するものでもあったと言える。
まず、シラーの自由についての考え方は、他に依存することなくそれ自身で存在することだという。これは、神の存在を考慮するような中世的な世界観に戻ったとも言えるだろうが、そうではなく、むしろ個人の陶冶ということを重要視していたということの現れではないかと考える。
それゆえに、シラーは感性衝動と形式衝動のどちらか一方に偏らずに、両者を媒介する遊戯衝動が大切だと主張したのである。この遊戯という考え方の中には、自由が想定されてよいだろう。なぜなら、人間は、遊戯をするときに、美とともにあり、美の根拠は自由であるから、そのとき、人間もまた自由で、最も陶冶されていると言えるからだ。
美、つまり生きる形態とは、具体的にはどういうことか。
それは、ほかならぬ生命のことでもあろう。遊びという態度は、動き続ける人間の生命の証明でもあり、生きているからこそあらゆる産出物に対して生を感じ、美を見出すことが可能になるのではないか。
このような考え方は、シラーが表現者・創作者として、彼らと鑑賞者両方に求めた在り方だろう。つまり、美を生み出す者は、生命力に満ちあふれ、自由でなければならない。そして、その産出物は、何人に依存せずとも、陶冶された人間にとって美であって、私たちはそれに対して、間接的に生命力と自由とを見ているということに繋がる。
このように、シラーは、自由と人間を愛し、自らも表現者として、美についての在り方を考えていた。生きるということからは、やがて崇高へとつながり、さらなるシラーの美学についての考察を可能としたのである。
秋学期
ゾルガーの美学について
ゾルガーにおけるファンタジーの能力は、我々の美的経験をどこに導くか?
ゾルガーは、美について、理念と現象との一致であるとした。美において、個物が強く表れていれ地上的な美であり、理念が強く表れていれば、それは神的な美であるとした。特に芸術美に関しては、地上の美と神的な美の中間であるとし、それを完全な美であるとした。
また、彼は、そのような美を認識する能力は、知性や悟性といったものとは関連付けることはできないとし、ファンタジーという能力が働くものとした。これは、プラトンのイデア論における、イデアを認識する能力が合理的知性よりも高次なものであるという考えに影響を受けているものと思われる。
これらを踏まえると、ファンタジーは、美的経験をするときに、理念を受け取り、個物に結びつけることに注力する能力であるようにも考えることもできる。しかし、理念はただ美的経験によって、受動的に我々の内部に現れるものなのであろうか。
ここで、ゾルガーがファンタジーを3つに細分化していること、ここでは、特にファンタジーの感性に注目する。この能力は、個物と共に理念を展開し、もう一度理念へと還元するのである。この働きは、まるで神の理念の啓示に呼応するようであり、さらに我々のファンタジー能力が、還元するという試みにおいて、より積極的に理念との接続を求めているように思われる。
芸術美という、ちょうどニュートラルなものがあるからこそ、ファンタジーはより一層の理念の展開や還元、理念と個物の一致を可能とするのではないだろうか。つまり、芸術(美)とは、我々がこの世界を良く観察し、そのうえで理念とのやりとりを可能にするよすがである。
また、美に対する態度である、イロニー概念によると、芸術に対して本能だけではなく、意図を持っているとする。意図とは自由への意図であり、それが美への姿勢としてファンタジーに影響を与えていると考えられる。そうであるならば、ファンタジーは自由と関連した能力であり、我々は芸術美を通して、理念やこの世界について自由を見ているということになるであろう。
つまり、美的経験は、イロニーを姿勢としつつ、ファンタジーを遺憾なく発揮させ、その能力は理念と現象の統一という方向に働くものである。それは自由によって支えられており、神的な美と地上的な美の中間である芸術美が存在するからこそより一層成し得るものである。ファンタジーの働く美的経験は、芸術美の経験を通して、より高次な理念の経験へと、我々を導くものであろう。
ヘーゲルの美学について
ヘーゲルの美は、精神の現象とどう関連し、なぜ芸術美を最高の美としたのだろうか?
ヘーゲルは、美学について、芸術の哲学と考え、これまでの美学である感性の学との区別をした。その中で、芸術美は特に優位であるとした。
一般に、仮象は本質と対立するが、芸術美では、仮象は、本質の現れにとって本質であるとした。また、美について、理念が仮象を通じて感覚的に現れることとし、積極的に精神との関連を試みた。
さらに彼は、芸術を、象徴的芸術形式、古典的芸術形式、ロマン的芸術形式に分け、芸術がいかに共同体に根付き、芸術美が成立し、絶対者の精神の把握、精神現象に近づいてきたかということを明らかにした。
まず、ヘーゲルの3つの芸術形式に注目すると、歴史的な時間軸の中で芸術が語られていることが分かる。つまり、芸術も精神の現象の過程であり、それが自由を自覚するという自己展開のひとつであると考えられる。
ここで、芸術美は古典的芸術形式の段階によって成立しているということに注目すると、芸術が共同体の根幹である宗教と強く関連していることが分かる。このような、特に古代ギリシアの宗教と共同体性では、精神が一部の人間にとって(おそらく全員ではない)自由として把握され、現わにされようとしているということだろう。ここで、このような理念は自然と自由の一致、人体彫刻の理想化などといった芸術美として現われている。言い換えると、この段階において、絶対者の現れのひとつとしての、芸術である。
しかし、古典的芸術形式では、絶対者が芸術美を通して現われているが、精神が完全に自己意識を自覚するに至っていないのではないだろうか。つまり、精神は自然や形にとらわれているが、これでは、精神は完全な絶対者への止揚を達成できていないと言える。精神は、自らの完全な自由の自覚に至り、内面へと還る必要があるからである。
ロマン的芸術形式では、このような課題を、死や否定を乗り越えることで解決し、より高次の段階へ至ろうとしている。これによって、絶対者は自己を自覚し、何事にも対立しない、自らの内面に統一することを可能とするのであろう。このような芸術形式の展開は、ひとえに精神の必然的な自己展開の過程である。
このように、芸術美は、精神が最高次の段階へ至るうえで必要なものであり、それなしでは達成し得ないのである。だからこそ芸術美は最高の美とされているのであると考える。 ヘーゲルの美は、精神現象の過程と深くかかわっており、彼の哲学を根幹から支えるものであると言えるだろう。