「シャミ子が悪いんだよ」のはなぜ語られるのか
本稿では、「シャミ子が悪いんだよ」を千代田桃が言ったか言っていないかの議論ではなく、このセリフ自体について考察する。
なぜ『まちカドまぞく』のファンはこのセリフを桃のものと解釈し、シャミ子に責任を押し付けているのだろうか。
ここで、「シャミ子が悪いんだよ」を改めて見ると、何に対して悪いのかが明言されていないことに気付く。ここでは、一般的にファンの間で楽しまれている「シャミ桃」に加え、原作から考察可能であろう、桃がシャミ子に対して好意を抱いているという解釈をする。つまり、「シャミ子が『私のことを惚れさせるから』悪いんだよ」と補完するものとする。
しかし、「惚れる」という行為が「悪い」という言葉に繋がるのは、不自然である。この点の解釈について、シャミ子と桃の敵対関係に注目したい。桃、桜ヶ丘を守るべき存在である彼女にとって、敵であるシャミ子に惚れることは禁忌である。ここから、桃が惚れたというその責任を、シャミ子に、ひいてはシャミ子の夢魔性押し付けているもの解釈できる。
以上から、ファンは、このセリフに「シャミ桃」の正当性を求めていることに加え、シャミ子と桃の関係性を再認識しつつ、シャミ子が夢魔であるということを強調するものではないだろうか。このセリフは、ファンの深い理解から成り立つものであり、だからこそファンに支持されるものであると考えた。
具体例
シャミ子が桃を惚れさせるような行動・言動の、原作内の例はあるか。挙げられる例はたくさんあるだろうが、ここでは、およそ1巻に1か所ずつの紹介にとどめる。
1巻 P57-P58「みんなが仲良くなりますように」
これまで「魔族」として認識してきた桃の(うどんやランニングも踏まえて)、「友達」に変わり始めようとするきっかけ。桃は、魔法少女であることを理由に、これまで友人との交友を極力なくしてきた(中学時代に佐田の勧誘を断るなど)。桃にとって、「みんなが仲良くなる」という言葉は、個人的にも救われるようなものだったのではないだろうか。
なお、このシャミ子のセリフは、『まちカドまぞく』全体を通してのテーゼともなっていることは特筆すべきである。
2巻 P100-P119「私の、シャドウミストレス優子の配下になれ」
ようやく友達として認識してきたシャミ子の父を封印したのが、自分の姉であると気づいた桃は、負い目を感じ、深く落ち込む。もしかしたらシャミ子は自分のことを嫌うかもしれない、と桃が考えるのは当然で、逃げ出すようにシャミ子のもとを去る「私、本当にシャミ子の宿敵だったね」。
しかし、シャミ子は現実を受け止め、桃と共に桜を探し、父を取り戻すための共闘を提案する。落ち込んだ桃にかけたシャミ子の言葉は、桃に「もう逃げない」と決意をさせるものだった。
3巻 P116-P119「シャミ子が笑顔になれるだけの、ごくごく小さな街角を全力で守れたら」
桃の笑顔が印象的なシーン。桃が人に笑顔を見せる場面は、あまりないが、このシーンでは強調されて表現してある。シャミ子の行動ではないが、ここでは、桃がシャミ子に特別な感情をを抱いている例として紹介する。
つまり、人には見せることのない笑顔を、シャミ子には見せるようになった、と解釈できる。また、桜を探すだけではなく、シャミ子を守るという目標を決意したことも印象的で、事実上、2巻でのシャミ子の提案を受け入れたと解釈できる。
その証として、桃はポッキンアイスをはんぶんこし、シャミ子に渡すのだった。
5巻 P32-P35 財布のプレゼント
桃が悩みに悩んで選んだプレゼントを、シャミ子はとても喜ぶが、リコのプレゼントのほうが嬉しそうだった。このことによって、桃はリコに嫉妬する。このあたりから、桃はシャミ子の交友関係について意識しだすようになる。
というのも、同巻においてシャミ子がスマホを買ったことに加え、体育祭実行委員など、シャミ子が強くなる=人間関係も広がる、のである。桃もこのことにはおそらく気づき始めており、例えば動物園デートのときなど、シャミ子との二人っきりの時間を欲しがっているように見える。
財布と言えば、人が日常で離さず持つものである。これをプレゼントするということは、深いところでの独占欲、といったものが見て取れるのではないだろうか。
5巻 P117, P118「いずれ私は絶対にシャミ子のことを好きになってた」
桃、告白する。しかし、修飾語を多用することによって、いかにもこの好意が自発的ではないみたいな言い方でぼかしている。桃にとっては、「頑張り屋」で、「見てて面白」くて、「かわいい」シャミ子が悪いのである。
また、シャミ子が夢魔であっても、そうでなくとも桃がシャミ子のことを好いていると、彼女自身が明言している。私が最初に挙げた、シャミ子の夢魔性についてはここで否定され、シャミ桃は「宿敵」を超えた彼女たちだけの世界へと発展していくのである。
まとめ
我々は、「シャミ子が悪いんだよ」を通して、彼女たちの世界を垣間見ているのである。まさに尊いとはこのことをいうのだろう。