【逃げ若】逃げ上手の若君の主人公、北条時行の生涯ついて解説

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はじめに

2024年夏アニメ「逃げ上手の若君」は、作画のすばらしさと時行様のかわいさで大きな話題を呼びましたが、その北条時行とはどのような人物だったのでしょうか?

この記事では、時行様の生きた時代に参戦した戦いだけでなく、アニメと史実の違いについて解説しようと思います。

以前、私は逃げ若の聖地巡礼に行ってきました。その様子はこちらからどうぞ。

北条時行の生涯

時行様かわいいね♡

生没年

?~1353年

生年についてははっきりしていないようです。

しかし、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞らが鎌倉を攻め破った1333年には生きていたことがわかっていること、兄の邦時が1325年生まれであること、の2点から、その間に生まれていたということは推測できます。

家族

父:北条高時(1303~1333) 鎌倉幕府14代執権 
若くして執権にさせられ、結局は親族や有力者が政治を取り仕切っていました。結果として、御家人の不満が爆発し、鎌倉を裏切る原因を作ってしまっていました。

兄:北条邦時(1325~1333) 高時の長男 新田義貞によって殺されました。

諏訪頼重によって助けられる

新田義貞軍の進路
新田義貞軍のおおよその進路 陸路では山がちで、攻めにくかった

1333年5月18日、稲村ケ崎の海岸線を破って東進する新田義貞は、22日に東勝寺で高時らを滅ぼしました。このとき時行は、叔父・北条泰家の命を受けた諏訪頼重(盛高との記述もあり)によって助け出され、信濃に匿われることになりました。

このとき、多く見積もっても時行は8歳だったことになります。アニメの描写だと体も大きく、もう少し成長しているようにも見えます。初期の場面での年齢に関しては脚色があるのかもしれません。

1回目の挙兵と奪還 中先代の乱

快進撃

1335年7月14日、時行は諏訪頼重らと共に挙兵しました。このとき、信濃国守護小笠原貞宗軍と戦って勝利、東に軍を進め、鎌倉を目指しました。なお、このとき貞宗は殺されていません。この後も貞宗は時行の宿敵として活躍します。

このとき、時行は多く見積もって10歳です。実際に刀をもってバチバチ戦っていたと考えるのはどうでしょうか。10歳の子供にはちょっと難しいような気もします。

しかし、頼重と時行が親しい関係にあったことは事実でしょう。北条に忠誠を誓っていた諏訪家にとって、時行は大切な子供として扱われていたに違いありません。また、諏訪地域の子供たちと時行が交流していたことも考えられます。

同25日、わずか11日で時行軍は鎌倉を落としました。ここで初めて、時行は鎌倉の土を再び踏んだことになります。10歳といえば小学3年生ぐらいの年齢です。

敗北と頼重らの自刃

もちろん、足利尊氏は黙っているはずがありません。京都にいた尊氏は、後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を求め、時行軍討伐に出ようとしますが、後醍醐はこれを与えませんでした。このとき既に尊氏は、後醍醐に反旗を翻すことをうっすらと考えていたのかもしれません。

1335年8月19日、尊氏は道中の時行方を立て続けに破って鎌倉に到着しました。結果として、時行軍は破れ、諏訪頼重はここで命を絶ちました。

最大の後ろ盾を失った時行は、生き残った諏訪残党と共に再び信濃に帰ったと考えられます。

頼重らが亡くなったとされる勝長寿院跡はここにあります。

建武の乱と南北朝時代

時行軍を鎌倉で破った尊氏は、後醍醐天皇からの上京の命令を聞かず鎌倉に残り、敵対しました。これにより1335年11月、後醍醐は新田義貞らの大軍を鎌倉に向かわせ、尊氏討伐を命令しました。

紆余曲折あり1336年、尊氏は後醍醐天皇を破り、光明天皇をたて上洛、1338年に征夷大将軍になり、室町幕府を開きました。それを認めない後醍醐は、吉野に逃げ、南朝を開きました。南北朝時代の始まりです。

時行の南朝帰順

かつて敵であった後醍醐天皇や新田義貞がいる南朝方に、時行はつくことになりました。ここから時行は、反幕府軍として、2度の鎌倉奪還を試むことになりました。

1337年の暮れ、後醍醐からの後ろ盾を得た時行は、2度目の鎌倉奪還を果たしました。このとき、再び小笠原貞宗と籠城戦を行い、小笠原が勝ったとも言われています。

翌1338年すぐ、時行は長くは鎌倉に留まらず、足利尊氏を倒しに京都へ軍を進めました。しかし、上手くいかず、伊勢の方に逃れたとの説があります。

このとき、時行は13歳ぐらいです。昔であれば成人ですので、体は小さいながらも武士の棟梁として手腕を発揮できていたのではないだろうかと考えられますね。

3回目

1352年2月、伊豆で挙兵した時行は、新田義宗・義興(新田義貞の子供)と共闘し、3度目の鎌倉奪還を果たしました。この知らせを聞いた尊氏は、京都で南朝と北朝の対立が続いている(観応の擾乱)にも拘らず、鎌倉に急行し、1353年、今度こそ時行を捕らえました。

時行の最期

尊氏に捕まった時行は、1353年5月20日、鎌倉の西郊の竜口で斬首されました。なお、この竜口という場所は、鎌倉幕府がかつて処刑場として使っていた場所でした。時行は無念だったに違いありません。

このとき、時行は多く見積もって27歳、少なく見積もって20歳です。いずれにせよ、20代の若者が仇を打つために奔走し、無念の死を遂げたというストーリー性が、逃げ若を興味深い作品にしている理由のひとつでしょう。

現在、竜口処刑場跡は石碑が建てられていますが、時行の時代からここにあったかは不明確だそうです。

時行の尊氏への執着(まとめに変えて)

ここまで見てきてわかるように、時行は足利尊氏に執拗な敵意を持っているようにも思えます。兄を殺した新田義貞の子孫や、鎌倉幕府討幕を企んだ後醍醐天皇とは手を取り合ったにも拘らず、最後まで尊氏と敵対しています。

まず、新田義貞は鎌倉幕府の下級御家人だったため、時行の子供時代に交流がなかったのかもしれません。後醍醐天皇も京都や奈良で活躍した人物ですので、幼い時行と会っていたことはなかったでしょう。

しかし、足利尊氏は、アニメ1話にもある通り、高級御家人だったため、時行のいた建物に出入りしていた可能性があります。そう考えるなら、幼い時行にとって尊氏は「優しい臣下のお兄さん」として映っていた可能性は高いです。

だからこそ、どうしても尊氏だけは許すことはできなかった、と考えれば、時行の行動原理は理解できるようです。

参考文献

『国史大辞典』(吉川弘文館)

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